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17 不世出の豪腕サウスポー 備 考
小川正太郎

和歌山中
(和歌山)
「甲子園の創世期」(大正末〜昭和初期)に現れた不世出の豪腕サウスポーが和歌山中の小川正太郎である。この和歌山中(現・桐蔭)の活躍で、和歌山県勢は創世期から「野球王国」として君臨してきた。和歌山中(現・桐蔭)が優勝3回、準優勝4回、その後を継いだ海草中(現・向陽)が優勝2回、準優勝1回である。海草中の夏連覇から30年の年月を経た昭和45年春、名将・尾藤の箕島が初優勝から10年足らずの間に4度の優勝戦をすべて制して優勝4回、そして箕島の後を継いだ平成の雄・智弁和歌山が優勝3回、準優勝3回である。

創世期
夏の選手権は当初、豊中球場(第1、2回大会)と鳴尾球場(第3回〜9回大会)で、春の選抜も第1回大会は八亊球場で開催されており、甲子園球場が全国大会の会場としてスタートしたのは、夏の選手権が大正13年の第10回大会から、春の選抜が大正14年の第2回大会からである。小川正太郎はこの大正13年夏と大正14年春の甲子園大会に野手として出場している。

当時の投手の手本
小川正太郎の流麗な投球フォームは「芸術品」ともいわれ、当時の投手の手本となったほどだった。旧制中学(5年制)時代の小川は、実に8度の全国大会出場を果たしているが、投手としての全国デビューは大正14年夏の選手権(第10回大会)。1回戦で熊本商を3安打完封している。注目されたのは大正15年夏の選手権(第11回大会)からである。

8連続奪三振
愛知商との初戦は17奪三振の快投で6対4、2回戦の台北商に16対3、準々決勝の鳥取一中には13奪三振の完投9対3で勝ち上がり、自身初のベスト4入りを果たした。迎えた大連商(満州)との準決勝で円城寺投手と投げ合い、惜しくも0対1で敗退したが、この試合で小川正太郎が記録した「8連続奪三振」は、その後平成24年夏の選手権(第94回大会)で松井裕樹(桐光学園)が今治西戦で10連続奪三振を記録するまで、86年間の長きに渡って大会記録だった。ちなみに選抜大会では昭和48年に江川卓(作新学院)が準々決勝の今治西戦で8連続奪三振を記録している。

▼大正15年選手権大会・準決勝 (大連)円城寺 (和歌山)小川正太郎
__.000 001 000=1
和 歌 山 中.000 000 000=0

和歌山中強し
昭和2年春の選抜大会は、大正天皇崩御のため8チームに縮小されて開催された。小川は初戦の関西学院中(兵庫)を13奪三振の完封6対0、準決勝の松山商(愛媛)を1安打10奪三振の完投4対1で勝利し、決勝進出。決勝は「まるで二階から落ちてくるというカーブと快速球」で前年覇者の強打・広陵中(広島)打線から10奪三振、8対3で快勝して春を制した。和歌山中としては大正10、11年の夏の選手権連覇以来となる3回目の優勝、春の選抜大会は初優勝。和歌山県勢による春の優勝は、43年後の名将・尾藤監督率いる箕島の初優勝まで下ることになる。優勝チームによる米国遠征・初切符を和歌山中が手中に収め、1勝3敗1分の成績を残している。

▼昭和2年選抜大会・準決勝 (和歌山)小川正太郎 (松山)萩原
和 歌 山 中.200 002 000=4
__.100 000 000=1

▼昭和2年選抜大会・決勝 (和歌山)小川正太郎 (広陵)田部
和 歌 山 中.013 000 400=8
__.011 000 100=3
※和歌山中は初の選抜大会V。

選抜優勝校、米国派遣で閉ざされた春夏連覇への道
初の米国遠征切符を手にした和歌山中は皮肉にも、昭和2年夏にエース小川を含むレギュラー陣すべてが遠征中のため不在。それでも控え選手だけで夏の和歌山県予選を勝ち上がり夏の甲子園大会に出場が決まった。しかし、補欠選手だけのチームで勝ち上がれるほど甲子園は甘くはなかった。1回戦で鹿児島商(鹿児島)に0−8の大敗を喫し、史上初の春夏連覇を逃した。大会はサイドスロー水原茂を擁する高松商(香川)が決勝で広陵中(広島)を5−1で破り2年ぶりの全国制覇を達成した。
大会終了後、当時最強といわれていた和歌山中のレギュラーが渡米せず大会に参加していれば夏の大会も優勝していただろうという声が上がり、春選抜と夏選手権の優勝校同士による日本一決定戦が急遽行われる異例の事態に発展。和歌山中×高松商の決戦試合は同年11月6日、大阪の寝屋川球場で開催された。後にも先にも、春夏優勝校による決定戦が行われたのはこの年だけだ。
昭和2年・日本一決定戦 (和歌山中 VS 高松商)

選抜連覇の夢破れる
翌3年春の選抜大会にも出場、初戦の柳井中(山口)を14奪三振の完投7対2、準々決勝の松本商(長野)は12奪三振の完封9対0、準決勝の静岡中に7回降雨コールド2対0、と順調に勝ち上がり2年連続の決勝進出。決勝では関西学院中の悳投手に10安打を浴びせるが、最後まで攻略できず1対2で惜敗、春の選抜連覇を目前にしてあと一歩及ばなかった。熱戦の模様が初めてNHK大阪放送局の電波に乗って伝えられたのも、優勝校(関西学院中)にはじめて優勝盾が贈られたのもこの大会だった。

▼昭和3年選抜大会・準々決勝
(和歌山)小川正太郎、土井 (松本)佐藤茂美、中島治康、佐藤茂美

和 歌 山 中.000 008 100=9
__.000 000 000=0

▼昭和3年選抜大会・決勝 (和歌山)小川正太郎 (関西)悳宗弘
和 歌 山 中.000 001 000=1
関西学院中.020 000 00X=2

最後の甲子園出場となった3年夏は初戦の佐賀中(佐賀)に2安打完封、続く高松中(香川)で5安打13奪三振の好投も1対3で準々決勝敗退。和歌山中を卒業後、小川は早稲田大学に進学したが、胸部疾患のため今ひとつ振るわなかったらしい。



甲子園での投手成績
大 会スコア対戦相手備 考
大正14年夏1回戦02-0___完封勝利(1):3安打8奪三振
2回戦00-1早 稲 田 実完投:1安打6奪三振
大正15年春1回戦08-6__完投勝利:7安打5奪三振
準々決勝03-4__完投:7安打8奪三振
大正15年夏1回戦06-4__完投勝利:6安打17奪三振
2回戦○16-3__小川 (先発勝利) -土井
準々決勝09-3鳥 取 一 中完投勝利:3安打13奪三振
準決勝00-1__完投勝利:4安打15奪三振
昭和2年春1回戦06-0関西学院中完封勝利(2):1安打13奪三振
準決勝04-1__完投勝利:1安打10奪三振
_08-3__完投勝利:6安打10奪三振 (選抜初優勝)
昭和3年春1回戦07-2__完投勝利:7安打14奪三振
準々決勝09-0__完封勝利(3):7安打12奪三振
準決勝02-0__完封勝利(4):1安打7奪三振 (7回降雨コールド)
_01-2関西学院中完投:3安打8奪三振
昭和3年夏2回戦◎12-0__完封勝利(5):2安打5奪三振
準々決勝01-3__完投:5安打13奪三振
大正13年夏=2回戦(投手=野田)
大正14年春=ベスト8(投手=野田)
大正14年夏=2回戦
大正15年春=ベスト8
大正15年夏=ベスト4
  (対大連商=8連続奪三振)
昭和2年春=優 勝
 (優勝校による初の米国遠征)
昭和3年春=準優勝
昭和3年夏=ベスト8

甲子園通算成績
 12勝5敗
 5完封
 選_抜7勝2敗
 選手権5勝3敗

早大→毎日新聞社

昭和56年に野球殿堂入り
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