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選ばれし者のみが集うあこがれの夢舞台 甲子園。その土を踏み締め、一瞬の静寂の中で万感の思いを巡らせていると、余韻に浸る暇もなく戦いのときは訪れる。若き戦士たちは一所懸命にボールを追い続け、一球一球に神経を集中させる。しかし、思いとは裏腹に、厳しすぎる現実が彼等を待ち構えていた。「これも野球、それも人生」ということを教えてくれる素晴らしい場所、そこから彼等はまた新たな一歩を踏み出していく。

このコーナーでは、ツキに見放されて惜しくもその目標に手が届かなかった高校野球チームを紹介していますが、はたして本当に運が悪かったのかどうか、正直言って誰にも分かりません。多少の運・不運があったにせよ、唯一栄冠を手にする1チーム以外は必ず敗れ去る勝負の世界。見方を変えれば、99%の負け組が予選や大会を支えていて「勝つことを目標にしながら最終的に負けて終わる」のが甲子園であり、高校野球なのです。

【不運を絵に描いたようなチーム】
 PL学園(大阪):10回1死までノーヒット・ノーラン〜記録は幻
 東北(宮城):4点差を守り切れず、まさかまさかの逆転サヨナラ負け
 駒大苫小牧(南北海道):いやな予感が的中?降雨ノーゲームで形勢逆転
 日章学園(宮崎):22安打を放って勝てない奇妙キテレツ
 岩国(山口):甲子園1勝は遠かった〜ツキに見放された時代
 比叡山(滋賀):春夏続けて初戦で「優勝校」に惜敗という不運
 中京(愛知):完全試合まであと2アウト〜悪夢の一撃!劇的幕切れ
 境(鳥取):延長10回に許した初安打がサヨナラ本塁打
 柳川商(福岡):止めたバットに当たって決勝点〜牽制悪送球が引き金
弘前工(青森):初出場校の不運〜10人目の敵はバックネット
鉾田一(茨城):戸田ワンマンショー完結寸前の悪夢〜9回2死無走者、一ゴロ‥‥
報徳学園(兵庫):9回裏の同点ボーク〜勝利から一転サヨナラ負け
報徳学園(兵庫):4年連続「優勝校」に行手を阻まれる〜清水監督・苦難の時代
成田中(千葉):世紀のミスジャッジに泣いた優勝候補
和歌山中(和歌山):選抜優勝校の米国派遣中に夏の大会終わる〜閉ざされた連覇への道
杵築中(島根):第1回大会での山陰代表決定戦事件
番外1・稚内大谷(北海道):予選で破竹の100連勝!〜でも甲子園出場がない不運
番外2・屈辱の11連敗〜奈良県勢が神奈川県勢に勝てない不思議

※2013年(平成25年) 3月23日最終更新
P L 学 園
(大 __ 阪)
10回1死までノーヒット・ノーラン 記録は幻
2009年
(平成21年)
選抜大会
平成21年春の悲劇。優勝候補の一角、PL学園(大阪)の左腕エース中野は、1回戦で西条(愛媛、四国大会覇者)の好投手秋山と投げ合い、散発5安打11奪三振に抑えて1−0完封勝利。迎えた2回戦の南陽工(山口)戦も相手エース岩本との緊迫した投手戦になった。丁寧にコーナーを突く投球で好投する中野は6回、内角直球がユニフォームをかすめる死球を与えて初めて走者を出すが、後続を三振併殺(二盗失敗)に取ると、9回打者27人を無安打・12奪三振に抑える完璧な投球。しかし、味方打線が相手投手・岩本のフォークボールとスライダーに翻弄され、9回まで散発4安打の無得点に抑え込まれてしまったのである。
試合は0−0のまま延長戦へ突入すると、10回1死から南陽工の竹重に102球目の直球を左前へ初安打されて、記録達成は幻となった。伝令が出て間合いを取るものの、球威が落ち、握力もなくなってきた中野が投げ急ごうとしたところへ南陽工打線が容赦なく襲いかかってきた。4番国弘に2安打目を許すと、5番高木にスライダーを中前に弾き返され、ついに失点を喫してしまう。6番水井にも左前適時打を浴びて、この回まさかの2失点。PL学園はそのウラ、大槻の中前適時打で1点差に迫る粘りを見せたが及ばず。中野は無念の敗戦投手となった。

_第81回選抜大会(2回戦) =延長10回=
___(山_口)
_P L 学 園(大_阪)

1回戦の村上勇(富山商)と島袋(興南)の投手戦も圧巻だった。両校得点のゼロ行進は、やはり延長10回を迎え、2死二三塁から富山商の9番馬渕の中前2点適時打で均衡が破れたが、左腕の島袋は6者連続を含む全員奪三振、10イニングの毎回奪三振、さらに4イニングで三者三振を奪う合計19奪三振を記録。それでも、味方打線の援護に恵まれず、初戦で姿を消してしまう。どんな快投を見せようと、相手より得点が少なければ勝てないのが野球である。
___
(宮 __ 城)
4点差を守り切れず、まさかまさかの逆転サヨナラ負け
2004年
(平成16年)
選抜大会
平成15年の夏、東北(宮城)は長身の2年生投手ダルビッシュを擁して、東北勢初の全国制覇を狙って甲子園に乗り込んだが、木内監督率いる常総学院(茨城)に敗れて準優勝。迎えた翌16年の春、大会屈指の左腕岩見と投げ合ったダルビッシュが大会史上12人目となるノーヒットノーランを達成、熊本工を下して初戦を突破。事実上の決勝と目された大阪桐蔭との2回戦、ダルビッシュが大阪桐蔭・中村に2ホーマーを打たれたが救援の真壁が好投、3−2で接戦を制して準々決勝へ進出、初出場の済美(愛媛)との一戦を迎えたのである。いきなり初回に大沼が好投手福井から左翼に先制3ランを放つなど、序盤から東北ペース。先発真壁が3回、済美4番鵜久森に2ランを浴びて一時は2点差に迫られるが、6、8回に済美の守備の乱れから追加点を奪って6−2。4点リードで迎えた最終回、粘る済美に2点を返されたが既に2死走者なし。あと一人アウトにすれば東北が準決勝進出、悲願の白河の関越えに一歩近づいたと誰もが思った矢先に信じられないドラマが起こった。甘井と小松の連打で2死一二塁とされた後、3番高橋へのカウント2−0から甘く入った真壁の3球目のストレート。高橋が完璧にとらえて振り抜いた打球は、無常にも左翼を守っていたダルビッシュの頭上を越えてスタンドに飛び込む逆転サヨナラ3ラン。完投勝利目前の真壁はただ呆然。東北はダルビッシュを登板させることなく、まさかの準々決勝敗退。そして、史上初の4点差逆転サヨナラ勝ちという離れ業をやってのけた済美は、その2日後、初出場・初優勝の栄冠に輝くのである。

_第76回選抜大会(準々決勝) =逆転サヨナラ=
____(宮_城)
____(愛_媛)
5X

東北勢のここ一番での詰めの甘さ、人のいいおっとり采配は今に始まったことではないが、東北人気質の若生監督に「勝ちにこだる非情采配」を求めるのは酷だろうか。夏準優勝、春8強という立派な成績をおさめた監督の采配を云々するつもりは毛頭ないが、勝ちに徹するなら9回ウラの頭からダルビッシュ登板でもよかった。済美の強力打線を8回2失点に抑えた真壁は、期待をはるかに上回る好投。その好投に加えて4点という得点差が、指揮官に対して、当初に思い描いていたシナリオとは異なる「嬉しい誤算」で試合を終わらせようという思い違いを起こさせてしまったのである。
2点差に迫られて2死走者なし、打順は1番。このタイミングでも指揮官は動かなかった。今度は「あと一人」という思い違いである。連打で同点の走者が出ても、ついに動かない。試合後にこの場面を振り返り「四球かヒットが出たらダルビッシュに交代しようと思っていた」‥‥指揮官として常に最悪の事態を想定して手を打つとすれば、このタイミングでは遅すぎた。そして、起こりうる最悪の事態が本当に起こってしまった。この敗戦をバネにして本当にスキのない強い東北の野球が見れる日が来ることをただ願うのみである。
駒大苫小牧
(南 北 海 道)
いやな予感が的中?降雨ノーゲームで形勢逆転
2003年
(平成15年)
選手権大会
甲子園に棲む魔物の仕業か。8−0と駒大苫小牧(南北海道)が大量リードしながら、4回ウラ2死一三塁、駒大苫小牧の攻撃中に降雨ノーゲーム。駒大苫小牧9安打、倉敷工1安打の一方的な内容だった。再試合は“一度死んだ”はずの倉敷工(岡山)に2−5で無念の敗退。ルールとはいえ合計10点も取ったチームが5点のチームに負けてしまうとは何ともやりきれない。ちょうど10年前、平成5年の選手権大会「常総学院−鹿児島商工」戦でも同じようなドラマがあった。また、悪天候続きだった昭和54年センバツの準々決勝、午後の2試合が逆に雨天決行されたことがある。第3試合が延長戦となり午後5時を過ぎて、なお激しく降る雨中での試合開始となった第4試合、泥だらけの大熱戦(池田7−8東洋大姫路)を思い起こした人もいたに違いない。

_第85回選手権大会(1回戦)._同(1回戦)
___(岡__山)
降  雨
ノーゲーム
.
___(岡__山)
_駒大苫小牧(南北海道)
 .
_駒大苫小牧(南北海道)

記録上は抹消された最初のゲームの2回、駒大苫小牧は7安打を集中、3四死球を絡めて打者13人の猛攻で陶山投手から7点を先取した。4番若狭の死球ではじまり、7番桑島・8番糸屋・9番大西・1番原田の4連打、3番石川のタイムリー二塁打で打者一巡、4番若狭・5番白石も連打で続き大量7点。白石投手は被安打1、四球1のほぼ完璧な投球内容だった。
しかし、翌日の再試合の白石は序盤から不調で、自分の投球を取り戻せずに被安打8、四死球5の5失点。6回途中から救援した鈴木康仁がパーフェクト投球を見せたが、この日の駒大苫小牧打線は反撃できずに終わってしまう。一方、前日とは別人のような落ち着いた投球を見せた陶山投手は被安打6、四死球4ながら粘りの投球で3回の2失点だけに抑え込んで勝利。

「道産子伝説」誕生の瞬間
この話にはとんでもない“続き”があった!この敗戦の雪辱を誓った駒大苫小牧は強力打線を引っさげて翌16年の選手権大会に南北海道代表として甲子園に乗り込んできた。優勝候補の日大三、横浜を相次いで撃破、勢いをつけて望んだ決勝戦では春夏連覇を狙う済美(愛媛)を相手に決勝戦史上最多の20安打で13得点を奪って快勝、北海道勢として初の全国制覇を成し遂げてしまった。はたして本当に運が悪かったのかと今更ながら思ってしまう「道産子伝説」誕生の瞬間。甲子園史上最高となる驚異のチーム打率.448は、記録上抹消されてしまったあの打者13人の猛攻を“現実”に再現させたいという強い執念そのものだった。
その後も続く駒大苫小牧の快進撃は凄まじいものがあった。数多くの激闘・名勝負を重ねて、57年ぶり史上6校目の夏の選手権連覇を達成。3年連続で進出した平成18年夏の決勝では早稲田実との歴史に残る激闘・引き分け再試合。1点差で惜敗も最後まで諦めない闘いぶりは見事だった。
日 章 学 園
(宮 __ 崎)
22安打を放って勝てない奇妙キテレツ
2002年
(平成14年)
選手権大会
こんなゲームはめったにお目にかかれない。毎回の22安打を放ちながら9安打の相手に負けてしまうなんて常識では考えにくいことだが、お互い初出場校同士のこの対戦にそんな常識は無縁だった。試合は序盤から両軍が点を取り合い、まったく予想がつかない展開。日章学園(宮崎)は3点ビハインドの4回、7番永倉・9番渡辺・1番島・3番平田・4番瀬間仲と5安打を集中して同点、5回には8番安富に2ランが飛び出し6−4と逆転。先発片山が6回に興誠(静岡)の9番山中に同点2ランを浴び、代わった小笠原が7回に今泉にタイムリーを許すなど6−8と再逆転されるが、8回瀬間仲の特大2ランで8−8同点。運命の最終回、興誠が四球・犠打に内野エラーでノーヒットで1点勝ち越したのに対し、日章学園は2本の長短打で無死一三塁としながらスクイズ失敗、飛球をダイビングキャッチした今泉のファインプレイで併殺という最悪の結果。日章学園は、毎回安打に加えて先発全員安打という猛攻ながら、13残塁という詰めの甘さが災いし、興誠・今泉投手に被安打22の完投勝利を許した。

_第84回選手権大会(2回戦)
____(静_岡)
_日 章 学 園(宮_崎)

興誠・今泉投手のこの試合の投球内容「打者48、投球数136、四死球1」という数字に着目したい。勝つべくして勝っていたことをデータが証明しているのだ。打者48人に対する投球数136(打者一人当たり平均2.8球)は極めて少ない。つまり、今泉は日章学園の打者一人に3球に満たない理想的な「省力投球」で“打たせていた”のだ。そして、9回完投で四死球わずかに1個と、無駄な走者を出さなかったことが最大の勝因。22安打に四死球が絡んでいたら、日章学園にビッグイニングを作られ、こんな得点ではおさまらなかったことは想像に難くない。一方の興誠打線は、日章学園の片山・小笠原両投手が出した6四死球の走者を確実に進めて、その内4走者を生還させている。特に6回以降の5点の内、3得点は四死球の走者が本塁を踏んでおり、勝負どころでキッチリ基本に徹した興誠に軍配が上がった。
___
(山 __ 口)
甲子園1勝は遠かった ツキに見放された時代
1971年
(昭和46年)
選抜大会
:
2000年
(平成12年)
選手権大会
平成15年の選手権大会、岩国(山口)は優勝候補といわれた広陵(広島)を撃破するなど甲子園で3勝、旋風を巻き起こして8強入りした。野球部関係者はもちろん、多くの岩国高OBは溜飲を下げたに違いない。1回戦の羽黒戦で岩国が上げた1勝はただの1勝ではないのだ。8度目の甲子園出場でつかんだ「初勝利」だった。それは初出場の昭和46年春から数えて実に32年越しの悲願達成であり「甲子園未勝利校で最多の7連敗」という不名誉な記録に別れを告げた価値ある1勝なのだ。平成に入ってから6度の甲子園出場は実力の証しなのだが、とにかくツキに恵まれず甲子園1勝は本当に遠い道のりだった。

_昭和46年__1回戦_ ●2−3__(徳島)
_昭和48年__1回戦_ ●2−3__(徳島)
_平成05年__2回戦_ ●12−15__(静岡)
_平成10年__2回戦_ ●2−9常 総 学 院(茨城)
_平成11年__1回戦_ ●2−4__(茨城)
_平成12年__1回戦_ ●5−6__(長野)
_平成12年_選手権1回戦_ ●04−14松 商 学 園(長野)

_第43回選抜大会(1回戦) =逆転サヨナラ=
____(山_口)
___(徳_島)
2X

_第45回選抜大会(1回戦) =逆転サヨナラ=
____(山_口)
___(徳_島)
3X

初出場を果たした昭和46年の徳島商戦は、ほぼ勝利を手中にしながら9回に壮絶な逆転サヨナラ負け。2年後、初戦で再び徳島勢の鳴門工と対戦といういやな巡り合わせだったが、9回に追加点を取って2−0で最後の守備についた。今度こその思いが強すぎたのか、3点取られてまさかの逆転サヨナラ負けだった。その後、出場回数を重ねるも初戦のカベは厚く通算で7連敗。未勝利のまま迎えた平成15年の選手権大会における一挙の3勝は、永年の汚名を返上するに余りある活躍だった。ちなみに初出場からの連敗記録は平成7年夏〜22年夏の盛岡大付(岩手)の9連敗がワースト(第85回選抜大会で初勝利)で、昭和34年夏〜42年夏の海星(長崎)は岩国と並ぶ7連敗。
__
(滋 __ 賀)
春夏続けて初戦で「優勝校」に惜敗という不運
1999年
(平成11年)
選抜大会
選手権大会
村西哲幸−細見直樹のバッテリーを擁して、滋賀県勢として初の全国制覇を狙って乗り込んだ甲子園。春・センバツの初戦は沖縄尚学(沖縄)を散発3安打・10奪三振、夏・選手権の初戦は桐生一(群馬)を5安打・12奪三振!完璧に抑え込んだ‥‥はずだった。結果は言うまでもない、沖縄尚学はこの年のセンバツ優勝校、桐生一は夏の選手権優勝校である。春の沖縄尚学戦は比叡山が押し気味にゲームを支配していたが、7回スクイズで取られた1点が決勝点になってしまう。夏は県予選の対近江兄弟社戦で19奪三振・ノーヒットノーランを達成するなど、圧倒的な強さで甲子園に再び登場。桐生一戦は好投手・正田樹との投手戦となり、0−0で迎えた8回に決勝点を与え、打線は7回に初安打が出て完全試合を逃れるのが精一杯。再び初戦に完封負け。

_第71回選抜大会(1回戦)
___(滋_賀)
_沖 縄 尚 学(沖_縄)

_第81回選手権大会(1回戦)
___(滋_賀)
___(群_馬)

甲子園ではどうしても初戦のカベを撃ち破れないチームはたくさん見てきたし、勝負の世界だから力及ばず負けてしまうのはやむを得ない。結果論といえばそれまでだが、春夏続けて優勝校と互角に渡り合いながら、いずれも初戦敗退した比叡山に限っていえば「くじ運が悪かった」という言葉しか思いつかないのである。
___
(愛 __ 知)
完全試合まであと2アウト 悪夢の一撃!劇的幕切れ
1988年
(昭和63年)
選抜大会
昭和63年センバツ3回戦、木村龍治(巨人)を擁した中京(愛知)は同姓・木村真樹投手の宇部商(山口)と対戦。両木村ともに好投、無得点のまま8回を迎えていた。8回表、宇部商は三者凡退。中京・木村はまだ一人の走者も出していない。直球と落ちるカーブがコーナーに決まり8回までわずか79球、強打の宇部商打線を翻弄して完全試合ペースである。8回裏、4番伊藤和己のタイムリー2塁打で中京が1点先取、ついに均衡が破れた。そして迎えた9回、先頭打者を投ゴロに仕留めて「昭和53年春1回戦の前橋・松本稔投手が対比叡山戦で達成して以来、甲子園大会史上2人目の快挙」などという過去のデータをひも解いている直後に大記録は消滅する。26人目の打者・8番西田崇が2−1と追い込まれた後の4球目、木村得意の“アウトローに落ちるカーブ”にちょこんと合わせたバットから二塁手横をゴロで抜く初安打が生まれた。大観衆のどよめき、緊張の糸が切れて冷静さを失う木村。代打の小松誠に送りバントを決められ、打順が1番に戻って坂本雄への初球、この日木村が投じた91球目は魅入られたように内角寄り高めに浮いた絶好球。坂本がバットの芯でとらえて振り抜いた打球は大歓声を浴びながら左中間のラッキゾーンに舞い降りた。中京・木村は「あと2人で完全試合」から一転、逆転で負け投手という残酷な幕切れ。

_第60回選抜大会(3回戦)
___(山_口)
____(愛_知)

この試合、8回裏に4番伊藤のタイムリーで先制点を奪った直後に勝負の流れを変える“起点”があった。続く5番木村の中飛で走者が飛び出し、あえなく併殺。先制したものの、追加得点機をミスで潰した中京は最少得点差で9回表を迎えてしまうのだ。勝ったと思った瞬間に生じたわずかな集中力の欠如がほころびとなって、予測し得ない展開につながっていく。併殺を完成させた宇部商にすれば“よし!いける”という勢いがつくきっかけをもらったのである。

(鳥 __ 取)
延長10回に許した初安打がサヨナラ本塁打
1984年
(昭和59年)
選手権大会
境(鳥取)はエース安部伸一を擁して4度目の選手権出場を果たし、夏の初勝利を目指していた。初戦の相手は関東の強豪・法政一(西東京)だったが、安部投手が9回を四球1つの完璧な投球でノーヒットノーランに抑え込む。本当ならば球史に名を残す大記録達成にもかかわらず、2回戦に進んだのは法政一だった。相手の岡野憲優投手はスローボールを織り交ぜて、境打線を翻弄、9回まで散発4安打、1四球のこちらも無失点。結局、0−0で勝負がつかず、延長戦に突入。延長10回ウラ2死無走者、安部投手が投じた初球の甘いスライダーを法政一の3番打者・末野が強振すると、打球は左中間ラッキーゾーンに舞い降りる価千金のサヨナラホームラン。10回2死までノーヒットノーランに抑えながら、たった一球のコントロールミスが痛恨の一球となってしまう。31人目の打者に初めて許したヒットがホームラン、しかもその瞬間に試合の勝敗を決してしまうという、境高にとっては何とも残酷な結末だった。

_第66回選手権大会(1回戦) =延長10回=
_____(鳥_取)
___(西東京)
1X

境高は昭和27年、54年、57年、そしてサヨナラ本塁打で敗れた59年と4度、夏の甲子園に出場していたが、すべて初戦で敗退していた。その後、平成2年夏に鳥取県大会を制し、夏の甲子園大会に出場した境高は、1回戦で八戸工大一(青森)と対戦、9回表に追いつかれて2−2とされた直後の9回ウラにサヨナラ勝ちし、悲願だった選手権初勝利をおさめている。
__
(福 __ 岡)
止めたバットに当たって決勝点 牽制悪送球が引き金
1976年
(昭和51年)
選手権大会
柳川商(福岡、現・柳川)は好投手の久保投手(近鉄−阪神)を擁し、立花(西武)を中心とした打線も破壊力抜群で、大会前から優勝候補に名を挙げられていた。一方のPL学園(大阪)は前評判は今イチながら、初戦・松商学園(長野)戦に中村投手が好投、1−0で勝って上り調子。柳川商は1、2回ヒットで走者を出して押し気味だったが決定打が出ず無得点。迎えた3回、思わぬ形で先取点を与えてしまう。1死から、PL学園の1番羽瀬に一塁前内野安打で出塁を許すと、久保投手は俊足の羽瀬が大きく離塁するのを見て慌てて投げた一塁牽制が悪送球になり、羽瀬は労せずして二進。“足”が気になる久保は、羽瀬の離塁を小さくしようと二塁へ牽制するが、これまた悪送球で1死三塁。カウント0−2から久保が投げた球は高めに外れる完全なボール球。おそらくPL学園の打者・山本はストレートを狙い待っていたのだろう、このボール球に思わず手を出しそうになって止めたバットにボールが当たってしまった。ところが、真芯でとらえた打球は久保のグラブをかすめてセンター前に転がった。悪送球2つと止めたバットによる不運なヒットで奪われた1点。この試合で両軍合わせて唯一の得点だった。

_第58回選手権大会(3回戦)
_P L 学 園(大_阪)
___(福_岡)

中盤以降、久保の好投でPL学園にはチャンスがなく、追加点が入りそうにない。1点だったらいつでも追いつけるという自信が過信につながったのだろうか。4回、柳川商は2安打の無死一三塁から強攻、投ゴロ併殺で好機を潰すなど、この日はチャンスにことごとく打球が野手の正面を突く。とうとう最終回まで来てしまうが、当たっている末次がこの日4本目のヒットで出塁すると、やはりひと波乱があるように思えてくる。しかし、代打・楠田がPL学園中村の得意球シュートを打たされて投ゴロ、ついに3つ目の併殺を食らい万事休す。「まだまだ」と思っていたら試合は終わっていた。試合巧者のPL学園はこの大会、決勝まで勝ち上がり桜美林(西東京)に敗れはしたが見事準優勝した。
10 __
(青 __ 森)
初出場校の不運 10人目の敵はバックネット
1976年
(昭和51年)
選抜大会
開会式直後の第1試合、岡山の名門・岡山東商(岡山)に初出場の弘前工(青森)が挑戦した。弘前工が先制すれば岡山東商が追いつき、岡山東商が勝ち越すとすぐさま弘前工が追いつく、という好ゲームとなった。岡山東商に1点リードされて迎えた最終回、弘前工は1死満塁と攻めたて、一打逆転のチャンス。7番の橘への3球目だった。岡山東商バッテリーがスクイズ警戒で高めに外した1球がバックネットに届くような大暴投になってしまう。三塁走者は躊躇なく本塁突入したが、球を拾いに行っているはずの捕手がボールを持って本塁上にいるではないか。バックネット下のコンクリート部分を直撃したボールが勢いよく跳ね返り本塁上の捕手のミット目掛けて飛んできた。本塁突入の三塁走者は本塁目前でタッチアウト、絶好の同点機を信じられないハプニングで逃してしまった弘前工は、その直後に打者も倒れて無情にもゲームセットのコールを聞いていた。

_第48回選抜大会(1回戦)
___(青_森)
_岡 山 東 商(岡_山)

本塁・バックネット間があれだけ広い甲子園だ。本来だったら同点、捕手がボールの処理にもたついている間に逆転かという場面だった。実際、三塁走者の田沢は同点を確信して本塁に滑り込んでいた。主審のアウトの判定にただ呆然と本塁上に座り込んだままである。
奇しくも同じ大会でもう1つ、不運に見舞われたチームを次に紹介する。
11 __
(茨 __ 城)
戸田ワンマンショー完結寸前の悪夢 9回2死無走者、一ゴロ‥‥
1976年
(昭和51年)
選抜大会
1回戦、出場20回を誇る古豪・高松商(香川)に11−8で打ち勝った崇徳(広島)の前に、鉾田一(茨城)のエース・戸田秀明が立ちはだかった。戸田は、1回戦の糸魚川商工戦で史上9人目のノーヒットノーランを達成している。黒田真二(ヤクルト)との投手戦で終盤まで0−0。均衡を破ったのは鉾田一だった。8回裏、戸田自身の左翼本塁打で先制、1−0。そして最終回のマウンド、戸田のピッチングはますます冴えを見せる。連続三振で、既に2死。もう誰も鉾田一の勝利を疑う者はいなかった。2試合連続完封で決勝アーチの「戸田ワンマンショー」が完結する寸前、2死ランナー無しから、信じられないことが起きた。“最後の打者”樽岡の打球は一ゴロ、「万事休した」と思ったら一塁手が後逸、2死一塁。続く小川に中前に運ばれ、永田には右中間に2点三塁打を放たれて逆転を許してしまう。これで崇徳の猛攻はおさまらない。応武に左前打を打たれて3点目を献上すると、動揺した戸田はもう何が何だか分からない。けん制悪送球、四球でさらにピンチを広げて、トドメは兼光の投前タイムリー内野安打。鉾田一ナインが呆然と見やったスコアボードの最終回に「4」が掲示されていた。

_第48回選抜大会(2回戦)
____(広_島)
___(茨_城)

センバツ初出場の崇徳はこの奇跡の逆転勝利で完全に波に乗った。準々決勝は福井(福井)に4−0で完勝、準決勝で日田林工(大分)を3−1で退け、あれよあれよと決勝進出。決勝戦では小山(栃木)を寄せつけず、黒田が完封5−0でセンバツ初出場・初優勝の栄冠を手にした。一塁手の失策がなければ、崇徳の優勝はなかった。
12 報 徳 学 園
(兵 __ 庫)
9回裏の同点ボーク 勝利から一転サヨナラ負け
1965年
(昭和40年)
選手権大会
報徳学園(兵庫)は4年前、対倉敷工(岡山)の延長戦で6点差をひっくり返して「逆転の報徳」として一躍有名になり、この夏は鈴木啓示(近鉄投手、317勝)のいた本命・育英を兵庫予選決勝で破って2度目の甲子園出場だった。主戦・谷村(阪急−阪神)が絶好調で、広陵(広島)を1−0、熊谷工(埼玉)を2−0と強豪を連続完封して波に乗っていた。迎えた準々決勝の対戦相手は三池工(福岡)。福岡の炭鉱町・大牟田からやってきたという、今まで聞いたこともない無名校だった。試合は谷村と三池工・エース上田(南海)の投げ合いで目を離せない展開。4回に失策絡みで先制されるも、5回に谷村の左中間三塁打で追いつき、6回に勝ち越し、そのまま9回裏を迎えた。4番下川の左翼線二塁打で1死三塁とされ、6番打者池田に対して1−1からの3球目だった。三塁走者がスタートを切り、谷村は「まずい、スクイズだ!」と慌ててしまった次の瞬間、ボールを握った右手が右膝に接触してボールが右手からこぼれ落ちた。転がるボール、呆然とする谷村、そして球審の「ボーク!」の声、小躍りして生還する下川選手。土壇場で同点にされた動揺のせいなのだろう、続く10回裏には、3試合無四球の精密機械のようなコントロールに狂いが生じ、三池工・瀬口に甘いカーブを痛打されてサヨナラ負け。

_第47回選手権大会(準々決勝) =延長10回=
_報 徳 学 園(兵_庫)
___(福_岡)
1X

炎天下の猛暑で集中力を欠いた一瞬の出来事。軸足がプレートにひっかかって、投球のモーションが止まり、ボールが足下にポトリ、そのままマウンドの傾斜でボールは転がっていく。報徳学園にとっては悔やんでも悔やみ切れない一球になった。一方の三池工は準決勝・秋田に4−3で逆転勝ち、決勝で木樽(ロッテ)の銚子商を2−0で破り初出場・初優勝の奇跡を演じた。三池工の監督は原辰徳(巨人監督)の父、原貢(のち東海大相模と東海大で監督、現・東海大系列校総監督)である。報徳学園はこの前年のセンバツで海南(徳島)に敗れて以来、4年連続出場した大会でいずれも「優勝校」に行手を阻まれている(→詳しくは次の13へ続く)。
13 報 徳 学 園
(兵 __ 庫)
4年連続「優勝校」に行手を阻まれる 清水監督・苦難の時代
1964年
(昭和39年)
選抜大会
:
1967年
(昭和42年)
選抜大会
報徳学園(兵庫)は、昭和39年春が海南(徳島、現・海部)に、40年夏が三池工(福岡)に、41年夏が中京商(愛知)に、さらに42年春が津久見(大分)に、4年連続出場した甲子園大会でことごとく「優勝校」に行手を阻まれた。ご覧のように全部1点差の惜敗だった。昭和39年は、尾崎将司(ジャンボ尾崎)が投手としてセンバツを制覇、海南は初出場で初の栄冠に輝いた。また、昭和40年夏は、前述した通り三池工が初出場・初優勝し、夏の選手権を制した唯一の工業高校となっている。後にも先にも、海南(徳島)が甲子園に出場したのはこの1度だけ。三池工が甲子園に出場したのはこの1度だけ。長い高校野球史の中で、このようなミラクルな優勝校に2年続けて当たった報徳学園は何とも“貴重”な巡り合わせを経験したといえる。ちなみに、41年の中京商は春夏連覇、42年春の津久見は、魔球といわれたドロップを投げた吉良投手を擁してセンバツ初出場で初優勝。やはりミラクルだった。

_第36回選抜大会(2回戦)
____(徳_島)
_報 徳 学 園(兵_庫)

_第47回選手権大会(準々決勝) =延長10回=
_報 徳 学 園(兵_庫)
___(福_岡)
1X

_第48回選手権大会(準決勝)
_報 徳 学 園(兵_庫)
___(愛_知)

_第39回選抜大会(準決勝) =延長10回=
___(大_分)
_報 徳 学 園(兵_庫)

4年連続で優勝校に敗れた報徳学園だが、このチームを率いた清水一夫監督はもっとスゴイ。実は、母校・報徳学園の監督に迎えられる前年の昭和38年は、市神港(兵庫)を率いて春センバツに出場していて、準決勝であの池永正明のいた下関商(山口)と対戦、終盤7回に決勝の3点を奪われ1−4で敗れている。その翌日、下関商はセンバツ初優勝を達成しているから、清水監督は「5年連続」で優勝校に惜敗したことになる。

_第35回選抜大会(準決勝)
___(兵_庫)
___(山_口)
14 __
(千 __ 葉)
世紀のミスジャッジに泣いた優勝候補
1946年
(昭和21年)
選手権大会
戦後、中等学校野球が復活して初めて開催された昭和21年夏の中等学校野球大会、大会屈指の石原照夫投手を擁して優勝候補の一角と目されていた成田中(千葉)が開幕直後の第1試合に登場、京都二中(京都)と対戦した。京都二中・田丸道夫との緊迫した投手戦、0−0で迎えた6回の成田中の攻撃で「それ」は起こった。2死ながら二塁打で出塁した石原照夫を二塁に置いて、石原利夫が中前安打、本塁への返球が捕手のミットに届くより僅かに早く二塁走者の石原がヘッドスライディングで生還。誰もが成田中の先制と思ったが、主審の判定はアウト。9回に1点を与えた成田中は0−1で敗退してしまった。京都二中はその勢いで勝ち進み、この大会で準優勝している。

_第28回選手権大会(1回戦)
_京 都 二 中(京_都)
___(千_葉)

まさに優勝の行方を変えてしまったかも知れない世紀のミスジャッジは、後日、中等学校野球写真展の「決定的写真」で公になった。その写真には捕手がまだ捕球していない時点で石原選手の手がベースに届いている事実がはっきり写っていたという。写真を譲り受けた成田中の関係者が地元に持ち帰り、現在も成田市立図書館に大切に保管されているそうだ。
15 和 歌 山 中
(和__山)
選抜優勝校の米国派遣中に夏の大会終わる 閉ざされた連覇への道
1927年
(昭和2年)
日本一決定戦
昭和2年の第4回選抜中等学校野球大会は、大正天皇崩御の国喪に服して大会日程を3日間に短縮、出場校を8校に縮小して開催された。この大会より優勝校には米国派遣の特典が与えられることとなった。出場8校は松本商(長野)、静岡中(静岡)、関西学院中(兵庫)、和歌山中(和歌山)、鳥取一中(鳥取)、広陵中(広島)、高松商(香川)、松山商(愛媛)。豪腕サウスポー小川正太郎を擁する和歌山中は、初戦の関西学院中に6−0完封勝ち。準決勝の松山商にも4−1で快勝して決勝へ進出すると、連覇を目指す前年覇者・広陵中を8−3で下し選抜大会初優勝。和歌山中は夏の大会と合わせて3回目の日本一に輝いた。

夏を迎えると、第13回中等学校野球大会の期間中、和歌山中はエースの小川正太郎を含めたレギュラー選手がそろって米国遠征に行っていたため、控え選手だけで夏の和歌山予選を戦わなければならなかった。何とか予選を制し全国大会(甲子園)に出場したものの、補欠選手だけのチームで勝ち上がれるほど甘くはなかった。1回戦で鹿児島商(鹿児島)に0−8の大敗を喫し、史上初の春夏連覇は成らなかった。夏の大会は結局、サイドスロー水原茂を擁する高松商(香川)が決勝で広陵中(広島)を5−1で破り2年ぶり2回目の全国制覇を達成した。

大会終了後、和歌山中のレギュラーが渡米せず大会に参加していれば夏の大会も優勝していただろうという声が上がり、春選抜と夏選手権の優勝校同士による日本一決定戦が急遽行われることが決まった。こうして和歌山中×高松商の決戦試合は同年11月6日、大阪の寝屋川球場で開催された。後にも先にも、春夏優勝校による決定戦が行われたのはこの年の一度きりである。この試合、小川正太郎(和歌山中)と水原茂(高松商)の一騎打ちで注目を集めたが、渡米からの帰国後で練習不足だった和歌山中は初回から押され気味で3回までに6失点。夏の覇者・高松商が粘る和歌山中を7−4で振り切り日本一となった。

_日本一決定戦(昭和2年)
___(選手権優勝校)
_和 歌 山 中(選 抜 優 勝 校)

ちなみに、昭和31年に兵庫県で開催された第11回国民体育大会(国体)の高校野球は阪神甲子園球場で行われた。春選抜大会優勝の中京商(愛知)と夏選手権大会優勝の平安(京都)の直接対決が実現。中京商が勝利し、国体も制している。
16 __
(島 __ 根)
第1回大会での山陰代表決定戦事件
1915年
(大正4年)
山陰代表決定戦
第1回中等学校野球大会(現在の高校野球選手権大会)の島根県予選を制した杵築中(現・大社)は、鳥取県予選を制した鳥取中(現・鳥取西)と山陰代表を争うことになっていた。当時の代表枠は全国10地区。関東、関西、九州でさえ、それぞれ1代表枠での出場だったことを考えると「鳥取・島根の2県で1代表」はかなりの優遇措置だ。早くから野球が盛んだった山陰地区では、明治時代の末頃からすでに山陰大会が開催されており、地元の中等学校野球への関心度はかなり高かったようだ。

第1回大会より2年前の大正2年、その山陰大会の試合中、地元開催側の鳥取・米子中(現・米子東)の応援団が島根・松江中(現・松江北)の応援団に木刀や青竹を振り回して暴行を働き、松江中が試合を放棄して帰るという事件が起こった。両県の関係を悪化させたこのトラブルはその後も尾をひき、翌年の山陰大会は中止、2年後の第1回大会予選にも影響が出てしまう。

どちらの県で試合をしても危険だということで、山陰代表決定戦が直前まで開かれず「全国大会の会場である豊中球場でやろう」ということになった。今でいえば地方予選決勝を甲子園で行うような前代未聞の事態に発展してしまったのだ。不運だったのは杵築中。はるばる大阪まで来て初めて見た氷水を飲んだ選手が下痢をしたことが原因で力を発揮できずに決定戦に負けてしまい(2−2同点で迎えた最終回、鳥取中に決勝の3点を奪われ2−5で敗退)、3日後に始まる本大会に参加することなく島根に帰って行った。

_山陰代表決定戦(大正4年8月15日:豊中球場)
___(鳥_取)
___(島_根)

ちなみに大社高の野球部史によると、腹を壊した原因は「試合の朝、杵築中ナインが武運長久を願って5月の端午の節句についた餅を食べたこと」という話がどうも真相らしい。晴れて山陰代表となった鳥取中は、開幕試合で広島中(現・広島国泰寺)と対戦。1回表、鳥取中の鹿田投手が大会第1球を投じて始まった試合は、14−7で鳥取中が打ち勝ち8強入り。記念すべき第1回中等学校野球大会に最初の勝利校としてその名を刻している。

_第1回大会 開幕戦(大正4年8月18日:豊中球場)
___(広_島)
___(鳥_取)
14

余談だが、鹿田投手が投じた記念すべき大会第1球の直球ストライクは、あろうことか2ストライク目としてカウントされている。広島中の先頭打者・小田選手が安打で出塁したため、うやむやになっているが、公式の記録上は村山龍平(大阪朝日新聞社社長)が始球式で投じた1球が先頭打者への初球ストライクとしてカウントされている。結局、最後までこのミスは訂正されることなく開幕試合は“無事”に終了した。第1回大会ならではのエピソードである。


稚 内 大 谷
(北__道)
予選で破竹の100連勝! でも甲子園出場がない不運
1991年春
(平成3年春)
名寄支部予選
:
1999秋
(平成11年秋)
名寄支部予選
北海道には支部予選というものがある。名寄・北見・小樽・釧根・札幌・函館・室蘭・南空知・北空知・旭川・十勝、以上11の支部(当時)に別れて支部予選を戦い、勝ち上がった代表校が夏は南北の北海道大会、春と秋は全道大会を戦うという仕組みである。参加校数の違いは、支部毎に送りだす代表校の数で調整している。札幌支部が最も学校数が多い上に強豪校も揃っており、次いで函館支部、旭川支部などに強豪が多い。名寄支部はまだ甲子園出場校を出したことのない地区で、強豪は稚内大谷だけといっても過言ではない。支部内に強敵がいない稚内大谷は平成3年春から9年間に渡って勝ちに勝ち続けてついに100連勝に達してしまう。平成11年の秋の予選で天塩に敗退、ちょうど100連勝でストップした。ところが稚内大谷は、特に強かったこの9年間を含めて一度も甲子園に出場していない。「支部内で抜きん出ている上に、全道レベルでは優勝するような力がない」という非常に微妙なバランスを9年間も保ち続けたという、何とも奇妙な記録なのだ。

稚内大谷が最も甲子園に近づいたのは平成5年夏の北北海道大会。支部予選で名寄農、天塩、稚内商工を退け、例によって名寄支部代表となった稚内大谷は北北海道大会の1回戦で北見柏陽を4−0完封の好発進。2回戦で滝川西を5−4、準決勝で帯広南商を8−3で下して、支部予選から破竹の6連勝で初の決勝進出。甲子園初出場に王手をかけた稚内大谷だったが、決勝で旭川大高に1−2で惜敗して準優勝に終っている。

北海道は学校数が多いので、支部内で抜きん出ているチームは何十連勝するのは珍しくない。函館支部で118連勝した函館有斗(現・函館大有斗)は春6回、夏7回の甲子園出場。甲子園でも常連校だった。平成に入り南空知支部で109連勝の駒大岩見沢(平成26年に閉校)も春8回、夏3回の甲子園出場を果たしている。

▼北海道支部予選で100連勝以上の記録
1)函館大有斗(函館支部)_118連勝(昭和56年夏予選〜平成3年春予選3回戦)→甲子園出場13回
2)駒大岩見沢(南空知支部)109連勝(平成3年秋予選〜15年春予選決勝)→甲子園出場12回
3)稚内大谷_(名寄支部)_100連勝(平成3年春予選〜11年秋予選2回戦)→甲子園出場なし


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智 弁 学 園

(奈 __ 良)
屈辱の11連敗 奈良県勢が神奈川県勢に勝てない不思議
1960年
(昭和35年)
選手権大会
:
2001年
(平成13年)
選抜大会
都道府県別に過去の対戦成績を見ていると、おやっ?と首を傾げたくなるような対戦がある。それは奈良県勢×神奈川県勢の対戦成績。昭和35年の選手権1回戦(御所工×法政二)に始まる両県の対戦は11回を数えるが、奈良県勢は一度も勝っていない。11敗の内訳は、春夏通算63勝(優勝3回)の天理が3連敗、20勝の智弁学園も3連敗、12勝の郡山が2連敗など、甲子園ではお馴染みの強豪校が顔を揃えているにもかかわらず1勝も上げていないのは不思議だ。甲子園の通算成績をみても、奈良県勢は109勝(全国16位)勝率.542(12位)と強い部類に入る。神奈川県勢の160勝(9位)勝率.618(3位)には数字ではやや下回るものの、まったく歯が立たないほど力の差はない。(注)奈良県勢・神奈川県勢の各成績は平成17年当時の数字。

_昭和35年_選手権1回戦_ ●__03−14__ (優_勝)
_昭和38年_選手権準々決勝_ ●__1−2___ (4_強)
_昭和41年_選手権2回戦_ ●___2−6横 浜 一 商 (8_強)
_昭和49年__1回戦_ ●__0−7___
_昭和55年_選手権準決勝_ ●___1−3___ (優_勝)
_昭和57年_選手権1回戦_ ●智 弁 学 園2−3__
_昭和62年_選手権2回戦_ ●___0−1__
_平成04年__準決勝_ ●___2−3東海大相模 (準優勝)
_平成10年__準々決勝_ ●___0−4___ (優_勝)
_平成11年_選手権2回戦_ ●智 弁 学 園5−9桐 蔭 学 園 (8_強)
_平成13年__2回戦_ ●智 弁 学 園2−5桐 光 学 園

_第45回選手権大会(準々決勝) =延長10回=
___(奈_良)
____(神奈川)
1X

_第69回選手権大会(2回戦)
____(奈_良)
___(神奈川)

_第64回選抜大会(準々決勝)
_東海大相模(神奈川)
____(奈_良)

奈良県勢にツキがないとすれば、昭和35年選手権の法政二は優勝、38年選手権の横浜は4強、41年選手権の横浜一商は8強、55年選手権の横浜は優勝、平成4年センバツの東海大相模は準優勝、平成10年センバツの横浜は優勝、平成11年選手権の桐蔭学園は8強というように、当たった神奈川県勢はほとんどのチームが好成績を残していることだ。逆に天理の3回の優勝(昭和61年夏、平成2年夏、平成9年春)、智弁学園のベスト4(昭和52年春、平成7年夏)、郡山のベスト4(昭和46年夏)のときは神奈川勢との対戦はなかった。

そして、奈良県勢にとって待ちに待った瞬間がやって来た。
智弁学園が県勢11連敗を喫してから10年目の平成23年選手権3回戦。智弁学園は1−4の劣勢のまま9回2死を迎えていた。強豪横浜の前に8強進出は風前の灯。誰もが12連敗かと思ったところで「世紀の逆転劇」に掲載されるようなミラクルゲームの結末が待っていた。積年の屈辱を晴らすかのような怒濤の集中攻撃で大量8点。ついに不名誉な連敗記録に終止符が打たれた。
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