| 中島 治康 
 松 本 商
 (長 野)
 | ホームプレートの両コーナーを切ったというシュートで「鉄腕」の異名をとり、投打の柱として活躍したのが松本商の中島治康である。その中島の活躍で、昭和3年夏、深紅の優勝旗が初めて日本アルプスを越えた。 
 長野県勢の甲子園優勝
 松本商(現・松商学園)として、というよりも長野県勢が夏の甲子園を制したのは後にも先にも中島のときだけである。春の選抜では、のち(昭和29年)に小さな大投手の異名をとった光沢毅(飯田長姫)によって長野県に紫紺の大旗がもたらされている。
 
 ノーヒッター八十川胖との投げ合い
 昭和3年夏の1回戦の対戦相手は、前年夏の準優勝校・広陵中(広島)である。対敦賀商戦で史上2人目のノーヒットノーランを記録した八十川胖(のち明大監督)と投げ合い、接戦の末に3対2で勝利。
 
 ▼昭和3年選手権大会・1回戦 (広陵)八十川胖 (松本)中島治康
 広陵中 100 001 000=2
 松本商 010 200 00X=3
 
 三原脩の高松中
 2回戦も接戦で鹿児島商を2安打完投の3対2で下すと、迎えた準々決勝は愛知商を10奪三振の2安打完封、5対0で快勝し、準決勝進出を決めた。準決勝の相手は高松中(香川)。前年夏の選手権を制した高松商・水原茂(慶大→巨人→第6代巨人監督)の永遠のライバルで、のちに魔術師といわれた三原脩(早大→巨人→第5代巨人監督→西鉄監督→大洋監督→近鉄監督→ヤクルト監督)の高松中である。中島は高松中を完封、3対0で決勝進出を決める(5回降雨コールド)。
 
 ▼昭和3年選手権大会・準々決勝 (愛知)勝川 (松本)中島治康
 愛知商 000 000 000=0
 松本商 000 301 10X=5
 
 ▼昭和3年選手権大会・準決勝 =5回降雨コールド= (高松)梶原 (松本)中島治康
 高松中 000 00X=0
 松本商 120 00X=3
 
 深紅の優勝旗が日本アルプスを越えた
 決勝は、強力打線の平安(京都)を得意のシュートで6安打1点に抑え込み、好投手・伊藤次郎(法大→セネタース)を打って3対1で勝ち、初優勝を飾った。深紅の優勝旗が初めて日本アルプスを越えた瞬間である。
 
 ▼昭和3年選手権大会・決勝 (松本)中島治康 (平安)伊藤次郎
 松本商 102 000 000=3
 平安中 000 000 001=1
 ※松本商は初優勝。
 
 甲子園での投手成績
 
 | 大 会 | スコア | 対戦相手 | 備 考 |  | 昭和3年春 | 1回戦 | ○07-1 | 高_松_中_ | 登板なし (佐藤○1失点完投) |  |  | 準々決勝 | ●00-9 | 和 歌 山 中 | 佐藤-中島-佐藤 |  | 昭和3年夏 | 1回戦 | ○03-2 | 広_陵_中 | 完投勝利:7安打2奪三振 |  |  | 2回戦 | ○03-2 | 鹿 児 島 商 | 完投勝利:2安打4奪三振 |  |  | 準々決勝 | ◎05-0 | 愛_知_商 | 完封勝利(1):2安打10奪三振 |  |  | 準決勝 | ◎03-0 | 高_松_中 | 完封勝利(2):2安打5奪三振 (5回降雨コールド) |  |  | 決_勝 | ○03-1 | 平_安_中 | 完投勝利:6安打8奪三振 (全国制覇) |  | 昭和4年春 | 1回戦 | ●01-3 | 八_尾_中 | 完投:8安打4奪三振 |  | 昭和5年春 | 1回戦 | ●01-3 | 高_松_中 | 先発:5回1/3 | 
 プロ野球史上初の三冠王
 巨人入りして打者に転向、ワンバウンドの球を本塁打したという"伝説"の悪球打ちで活躍し、プロ野球史上初の三冠王にも輝く。1リーグ時代の昭和13年、秋のシーズン38試合で打率.361、本塁打10、打点38。この記録が「三冠王1号」と認定されるのは戦後になってから。中島の10本塁打は、翌年タイ記録の10本を打った鶴岡一人が92試合を費やしたことを考えると、当時いかに凄い記録だったかが分かる。試合数と同じ打点をあげたのは、戦前では同13年春のシーズン31試合31打点の景浦将(タイガース)だけである。中島は現役引退後の昭和18年、第二代の巨人監督に就任している(のちに大洋監督も歴任)。
 
 “栄光の背番号3”をめぐる話
 なお、中島の背番号「3」は千葉茂に、のちにミスタージャイアンツ長嶋茂雄に受け継がれた。昭和49年秋、「巨人軍は永久に不滅です」の名文句で日本中の野球ファンが涙したあの長嶋引退の日、中島はテレビのスイッチを入れなかったという逸話がある。背番号「3」に対する中島の自負だったとする説だが、真実は本人のみぞ知るである。「嗚呼、我が心の長嶋茂雄」という著書まで出した長嶋思いの千葉茂に対して、大洋で監督を務めた後プロ野球界と絶縁してアマ球界としか接点を持っていなかった中島。
 巨人OB会長だった千葉茂はのちに長嶋電撃解任事件で、巨人OB会が真っ二つの危機の時「派閥に属さない厳正中立な“班長さん”しかおらん」として自分の後継に長嶋ではなく、中島を擁立した。長嶋派にも川上派にも属さなかった中島はこうしてOB会長就任要請を受けた。これは、背番号「3」繋がりの実話である。
 | 昭和3年春=ベスト8 昭和3年夏=優 勝
 昭和4年春=1回戦
 昭和5年春=1回戦
 
 甲子園通算成績
 5勝2敗
 2完封
 
 早大→藤倉電線→巨人→大洋
 プロ野球史上初の三冠王
 (昭和13年秋)
 首位打者 2回 (13年春、秋)
 本塁打王 2回 (12年春、13年秋)
 打点王 4回
 (12年秋、13年秋、15年、17年)
 最高殊勲選手 1回
 
 巨人監督(18年、21-22年)
 
 昭和38年に野球殿堂入り
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