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8 男気のマウンド 備 考
池永 正明

下 関 商
(山 口)
下関商の2年生エースとして春夏連続出場。決して大きくない体をフルに使って大上段から投げ込む、既に文句のつけようがないほど完成されたフォームで度胸満点のピッチングを展開、男気のあるマウンドだった。
池永正明の傑出した運動能力は、野球だけではなく陸上競技にも発揮されている。走り高跳び、砲丸投げ、80mハードル競走のいわゆる三種競技で、当時の山口県中学記録を樹立、全国大会3位に入賞している。昭和37年、下関商に入学すると、監督の高野繁也は池永の才能を見抜き、いきなり投手に抜擢、池永中心のチーム作りに着手したという。そして同年秋の中国大会に準優勝、あっという間に翌春の選抜大会出場を決めて、池永の甲子園伝説の幕は切って落とされた。

延長16回・海南戦
38年春初戦、のちに阪神に入団する大型捕手の和田徹を擁する強打の明星(大阪)と対戦した。優勝候補の一校に数えられていたこの強豪を相手に、和田には2安打されたが散発3安打に封じて5対0、あっさり初戦を突破する。2回戦以降は薄氷を踏むような僅差のゲームが連続した。海南(和歌山)戦では、のちにヤクルト入りする山下慶徳と延長16回を投げ合い、最後は松永自らサヨナラ2塁打を放って3対2で勝利。初回に失策絡みで2点を失ったが、その後の15イニングを無失点に抑える見事な投球だった。

▼昭和38年選抜大会・1回戦
(明星)堀川浩伸、高木睦善、甘佐三喜男、森永牧雄 (下関)池永正明

_星 000 000 000=0
下関商 010 011 02X=5

▼昭和38年選抜大会・2回戦 =延長16回= (海南)山下慶徳 (下関)池永正明
_南 200 000 000 000 000 0=2
下関商 000 020 000 000 000 1X=3

続く準々決勝では、元田(南海)・東田(西鉄)のいる強打の御所工(奈良)に9安打を浴び、5回に味方の失策絡みで2点を失った。最終回、加治の3塁打などで3点を取って大逆転、辛うじて3対2で勝ち残る。準決勝の市神港(兵庫)にも6回1点を先制されたが、すぐ同点に追いつき7回3点を取って3対1、3試合連続の逆転勝利。このときの市神港の監督は、翌39年から母校・報徳学園を率いた名将・清水一夫である。

▼昭和38年選抜大会・準々決勝 (下関)池永正明 (御所)藤村茂喜、山田智千
下関商 000 000 003=3
御所工 000 020 000=2

▼昭和38年選抜大会・準決勝 (神港)宮本幸信 (下関)池永正明
市神港 000 001 000=1
下関商 000 001 30X=4

父ちゃん、やったばい
決勝は、出場校随一の豪打を誇る北海と対戦、北海のお株を奪う効果的な攻撃ではじめて打線が爆発、松永が完封して10対0の大差で初優勝を飾った。試合後のインタビューでスタンドの父親に向かって「父ちゃん、泣かんでもいいやないね、やったばい」と声をかけたやりとりをマスコミが取り上げ、不敵な16歳池永の名は全国に轟いた。

▼昭和38年選抜大会・決勝 (北海)吉沢勝、城内幸雄 (下関)池永正明
_海 000 000 000=
下関商 004 401 01X=10
※下関商は初優勝。

左肩の脱臼
夏の県予選では打倒下商を目標に挑んでくる相手を次々に退け、勝ち進んだ。初戦宇部工戦から決勝宇部商戦までの5試合を完封、準々決勝の柳井戦には完全試合を達成し、無失点のまま選手権大会出場を決めた。万全な状態で臨んだ38年夏の甲子園、ところが思いもよらぬ試練が待ち受けていたのだ。
まず、初戦の富山商に4安打完封1対0で勝ち上がると、2回戦の松商学園(長野)戦でアクシデントが起こった。7回にヒットで出塁した松永が相手捕手のパスボールの際、果敢に三塁を陥れてヘッドスライディングして左肩を脱臼してしまう。池永の野球センスと運動能力が一流がゆえのアクシデントだった。激痛に堪え、左腕を固定したままの状態で、結局松商学園を完封5対0、勝利する。

▼昭和38年選手権大会・1回戦 (富山)丸山隆男 (下関)池永正明
富山商 000 000 000=0
下関商 000 000 10X=1

▼昭和38年選手権大会・2回戦 (松商)降旗淳、橋原了、矢ヶ崎和秀 (下関)池永正明
松 商 学 園.000 000 000=0
__.202 010 00X=5

予選からの連続無失点、67イニングで途切れる
3回戦の首里(沖縄)戦にはマウンドに立てず、ライトの坂本が先発、サインは池永がベンチから出した。打線が好調で運も味方して8対0で圧勝。準々決勝の桐生(群馬)戦に池永はマウンドに戻ってきた。左腕は固定したまま痛みを堪えて投げ続けるが、7回に1点を失い県予選から続いていた連続無失点は67イニングで途切れる。しかし先制の2点を最後まで守り切り2対1で逃げ切った。準決勝の今治西(愛媛)にも苦戦し、2対2で迎えた最終回、代打坂本のサヨナラ安打で辛うじて決勝進出。

▼昭和38年選手権大会・準々決勝 (下関)池永正明 (桐生)高橋恒夫、下山武士
下関商 000 002 000=2
_生 000 000 100=1

▼昭和38年選手権大会・準決勝 (今西)佐々木純、高野恒亮 (下関)池永正明
今治西 010 000 100=2
下関商 000 010 101X=3

連覇の夢、潰え去る
決勝の相手は先の選抜初戦で完封した明星だった。明星の監督は、海草中(和歌山)時代に投手で全国制覇(昭和15年)、のちに松竹のエースとしてシーズン39勝(昭和25年)、プロ通算178勝の怪腕でならした真田重蔵である。池永後略の戦法として、先頭打者にバント奇襲を指示、左腕の自由が利かない池永は足でボールを止めるのが精一杯。この内野安打をきっかけに下関商は内野守備の乱れを突かれて初回に2点を失った。6回、池永の三塁打、綿部の二塁打で1点差に詰め寄るが反撃はここまで。真田監督の巧みな投手交代でチャンスさえ作れずに池永の春夏連覇の夢は潰え去る。甲子園11試合目にして初黒星を喫した。

▼昭和38年選手権大会・決勝 (明星)堀川浩伸、角田哲美 (下関)池永正明
_星 200 000 000=2
下関商 000 001 000=1

翌39年春も出場したものの、指の腱しょう炎による練習不足がたたり初戦の博多工(福岡)に4対5で敗退。夏は山口県予選の初戦、0対1で早鞆に惜敗、甲子園の道は断たれた。この夏、早鞆は甲子園で準優勝している。

甲子園での投手成績
大 会スコア対戦相手備 考
昭和38年春1回戦05-0_____完封勝利(1):3安打8奪三振
2回戦03-2___完投勝利:12安打5奪三振 (延長16回)
準々決勝03-2__完投勝利:9安打7奪三振
準決勝04-1__完投勝利:5安打4奪三振
_◎10-0___完封勝利(2):9安打6奪三振 (初優勝)
昭和38年夏1回戦01-0__完封勝利(3):4安打15奪三振
2回戦05-0松 商 学 園完封勝利(4):6安打8奪三振
3回戦08-0___登板なし (坂本勝○4安打完封)
準々決勝02-1___完投勝利:7安打6奪三振
準決勝03-2__西完投勝利:9安打4奪三振
_01-2___完投:4安打5奪三振
昭和39年春2回戦04-5__完投:7安打8奪三振

プロ野球では西鉄に入団、わずか5年余りで100勝を達成する。若くして一流選手の仲間入りを確実にした矢先の昭和45年、黒い霧事件に絡んで永久失格選手になってしまう。軽率な行動で選手人生を棒に振ってしまったが、池永氏が58歳の平成17年4月25日に処分が解除され、35年ぶりの復権を果した。着せられた汚名を返上し名誉を回復したが、35年という月日は長過ぎた。
昭和38年春=優 勝
昭和38年夏=準優勝
昭和39年春=2回戦

甲子園通算成績
 9勝2敗
 4完封
 選_抜5勝1敗
 選手権4勝1敗
 投球回数106
 奪三振76
 自責点9
 防御率0.76

西鉄
昭和40年/20勝、新人賞
昭和42年/23勝、最多勝
昭和45年/黒い霧事件で永久失格

プロ通算成績
 103勝65敗
 勝率.613
 防御率2.36
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