甲子園「名投手」「名選手」百選 激闘の記憶と栄光の記録 Home
全国高校野球「都道府県別甲子園出場校」 激闘甲子園物語「名投手・名選手百選」 激闘甲子園物語「史上最強チームは?」 全国高校野球「名勝負&甲子園戦法」
全国高校野球「歴代優勝校」 世紀の逆転劇特集 甲子園出場校「通算勝星&勝率ランキング」 全国高校野球「甲子園出場校・校名の変遷」
全国高校野球「春夏決勝戦 全スコア」 激闘甲子園物語「激闘・延長戦」 甲子園出場監督「通算勝星ランキング」 高校野球クイズ[ザ・甲子園!]
都道府県「通算勝星&勝率ランキング」 激闘甲子園物語「初出場・初優勝」 全国高校野球史「第1回大会出場校は今」 高校野球博士度テスト[ザ・ルール!]
激闘甲子園物語「個人記録・チーム記録」 激闘甲子園物語「不運を絵に描いたようなチーム」 都道府県・出身校別「プロ野球選手リスト」 激闘高校野球連盟「バーチャル審判講習会」

前に戻る | 一覧を見る | 次に進む
2 伝説の大投手 備 考
嶋 清一

海 草 中
(和歌山)
甲子園の大会史上初めて5試合連続完封の全国制覇を果たし、しかも甲子園史上唯一となる、準決勝・決勝の2試合連続ノーヒットノーランを達成。戦前の名投手の中でもひときわ輝いた「伝説の大投手」が海草中の嶋清一である。

常勝・中京商の壁
旧制中学1年(昭和10年)の夏に一塁手として甲子園の土を踏み、翌年から投手に転向する。3年(昭和12年)の夏に投手として甲子園初出場。2回戦から登場し、徳島商を完封1対0、準々決勝の北海中には13対1で大勝、準決勝で中京商(愛知)の鉄腕・野口二郎投手と投げ合い1対3で敗退するが、以後5季連続で甲子園出場を果たすことになる。13年春は初戦の撫養中(現・鳴門高=徳島)を1安打完封4対0で勝利した後、再び中京商と対戦するが今度は野口投手にノーヒットノーランを喫し0対4で敗退した。13年夏は初戦の平安中(京都)で終盤制球を乱し、まさかの逆転サヨナラ負け、翌14年春の選抜は開幕戦で三たび中京商の前に初戦敗退している。

史上初の5試合連続完封2試合連続ノーヒットノーラン
最終学年時の昭和14年の夏の選手権大会では、主将・4番・エースとして大活躍し、完璧な投球内容で悲願の初優勝を果たすことになる。まず初戦の嘉義中(台湾)を15奪三振3安打完封で5対0と勝利すると、続く2回戦は、京都商・中尾硯志(巨人)に投げ勝ち2安打完封、5対0でこれまた快勝。準々決勝では、土井垣武(阪神→毎日→東映→阪急)・長谷川善三(南海→阪神→西鉄→毎日→高橋)のいた米子中(鳥取)を3安打完封、3対0で勝ち上がった。準決勝の島田商(静岡)戦では17奪三振ノーヒットノーランの快投、一言多十(セネタース)を打って8対0と大勝して一気に決勝進出を決めた。

▼昭和14年選手権大会・1回戦 (嘉義)酒見 (海草)嶋清一
嘉義中 000 000 000=0
海草中 000 021 11X=5

▼昭和14年選手権大会・2回戦 (海草)嶋清一 (京都)神田
海草中 210 000 200=5
京都商 000 000 000=0

▼昭和14年選手権大会・準々決勝 (米子)田中 (海草)嶋清一
米子中 000 000 000=0
海草中 001 200 00X=3

▼昭和14年選手権大会・準決勝 (島田)一言多十 (海草)嶋清一
島田商 000 000 000=0
海草中 401 000 30X=8

迎えた決勝の下関商(山口)戦では、甲子園史上唯一の「2試合連続ノーヒットノーラン」を達成、5対0の完勝で締めくくったのである。この試合、出した2四球の走者をいずれも塁上で刺しており、27人斬りの「完全」な投球内容は見事のひとことだった。

▼昭和14年選手権大会・決勝 (海草)嶋清一 (下関)友浦只雄
海草中 002 000 201=5
下関商 000 000 000=0
※海草中は初優勝。



松坂大輔の偉業は59年後
この夏の選手権で登板した5試合の通算投球内容が凄い。投球イニング合計45、被安打合計8、奪三振57。「5試合連続完封」と「連続45回無失点」は、昭和23年に福島一雄(小倉)が達成するまで、決勝戦でのノーヒットノーランに至っては59年後の平成10年に松坂大輔(横浜)が達成するまで、史上唯一の大記録だった。

剛球伝説と一瞬の青春
学生野球の父といわれた飛田穂洲氏は、昭和14年夏の嶋のピッチングを「天魔鬼神に等しい快投」と評した。野球記者の草分け、太田四州氏は「峻烈の剛球」「永く眼底に残る、後世の語り草」と賞讃した。しかし、不世出の名投手の未来は戦争によって奪われる。18年に明治大学に進学後、同年12月に学徒動員で海軍に召集され、戦地に赴くと、終戦5カ月前の昭和20年3月29日、シンガポールから護衛船でベトナム海岸線付近を北上中に、米国の潜水艦に魚雷攻撃され戦死。24歳の若者の一瞬の青春は伝説となり、後世に語り継がれることになった。

甲子園での投手成績
大 会スコア対戦相手_備 考
昭和12年夏2回戦01-0_徳島商完封勝利(1):3安打8奪三振
準々決勝○13-1北海中完投勝利:8安打10奪三振
準決勝01-3中京商*完投:5安打4奪三振
昭和13年春2回戦04-0撫養中完封勝利(2):1安打11奪三振
準々決勝00-4中京商*完投:7安打8奪三振 (中京商野口が無安打無得点)
昭和13年夏1回戦05-6平安中嶋-松井-嶋 (逆転サヨナラ負け)
昭和14年春1回戦02-7中京商*完投:5安打3奪三振
昭和14年夏1回戦05-0嘉義中完封勝利(3):3安打15奪三振
2回戦05-0京都商完封勝利(4):2安打8奪三振
準々決勝03-0米子中完封勝利(5):3安打9奪三振
準決勝08-0島田商完封勝利(6)【ノーヒットノーラン】17奪三振
_05-0下関商完封勝利(7)【ノーヒットノーラン】8奪三振

嶋清一投手に関わった主な野球人
杉浦_清‥当時の海草中指導者。剛速球投手だが、生来が優しく、重圧に弱い嶋清一の性格を見抜き、放任主義の指導が功を奏したと言われる。現役時代は中京商3連覇のときの遊撃手で、明大在学中の昭和13年夏に海草中コーチで甲子園出場。明大で4連覇を達成後、海草中に戻り指導を再開。嶋、真田を率いて全国制覇。終戦後の21年に32歳でプロ入り。中部日本(中日)の遊撃手兼監督。現役引退から10年後の38年から再び中日監督。
真田重蔵海草中時代の後輩。嶋の後を継いでエースとなりチームを夏の選手権大会連覇に導いた。プロ入りして朝日・松竹・阪神などで投手として活躍。通算178勝、昭和25年にセ・リーグ記録の39勝で最多勝、ノーヒットノーラン2回。その後、明星(大阪)の監督となり38年夏の選手権大会で和田徹(阪神→南海)らを擁して全国制覇を達成。
西本幸雄‥和歌山中時代に嶋清一の海草中と対戦している。のちに大毎・阪急・近鉄でリーグ優勝8回、通算勝星1384勝(1163敗)を数えた名将。プロ野球3球団で胴上げ監督になっているのは西本と三原脩(巨人・西鉄・大洋)だけ。
_文也‥当時の徳島商エース。夏の甲子園で優勝後の海草中と練習試合で対戦して勝利している。昭和25年にプロ入り。投手として東急に入団も1年で退団。翌年、社会科教諭として池田高に赴任して野球部監督。57、58年の夏春連覇を含め優勝3回・準優勝2回。甲子園通算37勝(11敗)は歴代6位。
昭和10年夏=2回戦(一塁手)
昭和12年夏=ベスト4
昭和13年春=ベスト8
昭和13年夏=1回戦
昭和14年春=1回戦
昭和14年夏=優 勝
 (5試合連続完封=史上初)
 (45イニング無失点=史上初)
 (対島田商=ノーヒットノーラン)
 (対下関商=ノーヒットノーラン)
 ※決勝での記録達成は史上初
 ※2試合連続は甲子園史上唯一


甲子園通算成績
 8勝4敗 (中京商に3敗)
 7完封
 選_抜1勝2敗
 選手権7勝2敗

明大
戦前の明大野球部最後の主将
ベトナム沖で戦死 (昭和20年没)

平成20年に野球殿堂入り
前に戻る | 一覧を見る | 次に進む
激闘の記憶と栄光の記録  Copyright © Y.Fujimura, All rights reserved.