甲子園「名投手」「名選手」百選 激闘の記憶と栄光の記録 Home
全国高校野球「都道府県別甲子園出場校」 激闘甲子園物語「名投手・名選手百選」 激闘甲子園物語「史上最強チームは?」 全国高校野球「名勝負&甲子園戦法」
全国高校野球「歴代優勝校」 世紀の逆転劇特集 甲子園出場校「通算勝星&勝率ランキング」 全国高校野球「甲子園出場校・校名の変遷」
全国高校野球「春夏決勝戦 全スコア」 激闘甲子園物語「激闘・延長戦」 甲子園出場監督「通算勝星ランキング」 高校野球クイズ[ザ・甲子園!]
都道府県「通算勝星&勝率ランキング」 激闘甲子園物語「初出場・初優勝」 全国高校野球史「第1回大会出場校は今」 高校野球博士度テスト[ザ・ルール!]
激闘甲子園物語「個人記録・チーム記録」 激闘甲子園物語「不運を絵に描いたようなチーム」 都道府県・出身校別「プロ野球選手リスト」 激闘高校野球連盟「バーチャル審判講習会」

前に戻る | 一覧を見る | 次に進む
12 日本球界が生んだ天才投手 備 考
沢村 栄治

京 都 商
(京 都)
日本球界が生んだ「天才投手」沢村栄治は、甲子園に3回出場している。三重県宇治山田市(現・伊勢市)に生まれ、明倫小学校高等科時代に全国大会で優勝の後、創部間もない無名の京都商(現・京都学園)に進学する。

藤村富美男、楠本保との投げ合い
昭和8年の春に甲子園初出場を果たす。初戦、優勝2回の強豪・関西学院中(兵庫)を相手に四球10個と制球を乱しながら14奪三振の完投、6対2でまず初勝利を挙げる。2回戦は2年生エース藤村富美男(のち阪神)が率いる広島の大正中(のち呉港中)と対戦、沢村は15奪三振の快投、接戦を3対2で制して大正中を撃破する。準々決勝で、明石中(兵庫)の世紀の剛球投手・楠本保と投げ合い、9奪三振も1対2で惜敗したが、この大会の活躍で沢村は一気に注目を集めることになる。同年夏は京都府予選の準々決勝で平安中に0対1で惜敗。

▼昭和8年選抜大会・2回戦 (京都)沢村栄治 (大正)藤村富美男、柚木進、藤村富美男
京都商 020 100 000=3
大正中 000 020 000=2

▼昭和8年選抜大会・準々決勝 (京都)沢村栄治 (明石)楠本保
京都商 000 000 001=1
明石中 020 000 00X=2

先発全員奪三振
翌9年春の選抜大会に再出場し、初戦の堺中(大阪)戦では先発全員奪三振を記録、17奪三振という快投を演じ、4対0で2安打完封勝ち。2回戦でふたたび因縁の明石中と対戦、今度は中田武雄投手と投げ合ったが味方打線の援護がなく、12奪三振の好投も報われず再び1対2で惜敗する。

▼昭和9年選抜大会・1回戦 (堺中)金銅 (京都)沢村栄治
_中 000 000 000=0
京都商 001 030 00X=4

▼昭和9年選抜大会・2回戦 (明石)中田武雄、深瀬正、中田武雄 (京都)沢村栄治
明石中 010 000 001=2
京都商 000 010 000=1

予選で驚異の23奪三振
同9年夏は、京都府予選の準々決勝・京都一工戦で、9回27アウトのほとんどが三振という驚異の23奪三振を記録、しかもノーヒットノーランを達成する完璧な投球を見せた。予選準決勝の京都一中戦も全員奪三振の19奪三振、決勝は16奪三振、1安打完封の7対0で平安中に雪辱を果たし、三たび甲子園出場を果たす。しかし、選手権大会ではやはり味方打線の援護がなく、藤井勇(のち阪神)のいた鳥取一中との初戦で4安打12奪三振(3回以降無安打)の好投も報われず、1対3で敗退している。

甲子園での投手成績
大 会スコア対戦相手備 考
昭和8年春1回戦06-2関西学院中_完投勝利:6安打14奪三振
2回戦03-2__完投勝利:5安打15奪三振
準々決勝01-2__完投:11安打9奪三振
昭和9年春1回戦04-0___完封勝利(1):2安打17奪三振
2回戦01-2__完投:5安打12奪三振
昭和9年夏1回戦01-3鳥 取 一 中完投:4安打12奪三振

17歳の全日本エース
随所に片鱗を見せたものの、沢村の甲子園通算戦績は3勝3敗の五分に終わっている。しかし、その年(昭和9年)の秋に凄いことをやってのけてしまう。
同年10月に京都商を中退した沢村は最年少の17歳で全日本に参加、11月20日静岡・草薙球場の対全米オールスター戦に先発完投、0対1で敗れはしたが、全米4番ルー・ゲーリッグの本塁打1本に抑え込んだ快投に天才・沢村の名前が轟き渡った。この試合で沢村は、被安打5、与四球1。米国が誇る強打者、チャーリー・ゲリンジャー、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグ、ジミー・フォックスらを揃えた全米オールスターチームから4連続を含む9奪三振を記録している。ちなみに、沢村は神宮・富山・草薙・京都・宇都宮で行われた日米野球5試合すべてに登板し、草薙以外の試合では全米選抜に打ち込まれ4敗を喫している。

▼昭和9年11月20日 日米野球 (日本)沢村栄治 (全米)ホワイトヒル
全日本 000 000 000=0
_米 000 000 10X=1

【全日本】
(左)二出川延明300020
堀尾_文人000000
(右)矢島_粂安302001
(遊)苅田_久徳400000
(中左)夫馬__200011
杉田屋_100000
(一)山下__200010
井野川利春101000
__栄敏000000
(二)水原__400010
(捕)久慈_次郎200011
(三)新富卯三郎300000
(投)沢村_栄治300020
2803083
__
【全 米】
(遊)マックネアー401000
(二)ゲリンジャー400010
(一)ル ー ス301010
(左)ゲーリッグ311110
(三)フォックス301020
(中)エブイルル301000
(右)ミ ラ ー300000
(捕)ヘ イ ズ300020
(投)ホワイトヒル200021
2815191

米国遠征21勝、国内巡業22勝で年間43勝の金字塔
翌10年の米国遠征(マイナーリーグクラスを相手に109試合、75勝33敗1分)で、大日本東京野球倶楽部のエースとして活躍した沢村の成績は47試合に登板して21勝8敗、313奪三振。帰国後も同倶楽部で国内巡業に参加し、25試合に登板、22勝1敗(158回で被安打71、187奪三振)の好成績を残す。実に1年間で43勝(9敗)という、プロ野球シーズン最多42勝・稲尾和久(西鉄)もビックリの鉄腕ぶりである。翌11年の米国遠征(76試合42勝33敗1分)は17完投も、成績は11勝11敗の五分に終わる。帰国後、東京巨人軍に入団。11年9月には対タイガース戦で日本プロ野球史上初のノーヒットノーランを達成、同年春はプロ野球初の20勝(24勝で最多勝)を記録して、最初の最高殊勲選手の栄冠にも輝いた。
昭和8年春=ベスト8
 (対関西学院中=14奪三振)
 (対大正中=15奪三振)

昭和9年春=2回戦
 (対堺中=全員奪三振/17奪三振)
 (対明石中=12奪三振)

昭和9年夏=1回戦
 (対鳥取一中=12奪三振)

甲子園通算成績
 3勝3敗
 1完封
 選_抜3勝2敗
 選手権0勝1敗

京都商中退→全日本選抜軍
→大日本東京野球倶楽部
→巨人
ノーヒットノーラン(3度)
 昭和11年9月=対タイガース
 昭和12年5月=対タイガース
 昭和15年7月=対名古屋軍

昭和12年6月=プロ野球初の20勝
昭和12年7月=最優秀選手賞

プロ通算成績
 63勝22敗
 勝率.741
 65完投
 20完封
 554奪三振
 防御率1.74
 最多勝利:2回
 最優秀防御率:1回
 最高勝率:1回
 最多奪三振:2回

台湾沖で戦死 (昭和19年没)

昭和34年に野球殿堂入り
前に戻る | 一覧を見る | 次に進む
激闘の記憶と栄光の記録  Copyright © Y.Fujimura, All rights reserved.