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6 世紀の剛球投手 備 考
楠本 保

明 石 中
(兵 庫)
昭和初期に「世紀の剛球投手」といわれたのが明石中の楠本保である。旧制中学2年(昭和5年)の春選抜大会に初登場以来、昭和8年までの4年間に6回甲子園に出場(新制高校の現在ではあり得ないことである)、通算で甲子園15勝(内8完封)を記録している。

史上初の全員奪三振
楠本がその真価を発揮するのは4年生になった昭和7年から。春選抜大会の初戦で広陵中(広島)を3安打完封、3対0で勝利するが、この試合で楠本は史上初の全員奪三振を記録した。2回戦の小倉工(福岡)には16対1で大勝、準々決勝で京都師範をふたたび全員奪三振の1安打完封1対0で勝ち、準決勝では和歌山中を4対2で退けて、自身初の決勝進出。

▼昭和7年選抜大会・1回戦 (広陵)阪田、丸川 (明石)楠本保
広陵中 000 000 000=0
明石中 000 021 00X=3

▼昭和7年選抜大会・準々決勝 (京都)梅垣 (明石)楠本保
京 都 師 範.000 000 000=0
__.000 000 10X=1

決勝では景浦将(立大、阪神)のいた松山商(愛媛)と対決。好投の松山商・三森投手に味方打線が沈黙、4回にその三森に左中間二塁打を打たれ決勝点を許し、惜しくも0対1で敗れて準優勝。しかし、5試合39イニングで49奪三振、被安打わずか17という投球内容が評価され、敗戦投手ながら委員賞を受賞。

▼昭和7年選抜大会・決勝 (松山)三森秀夫 (明石)楠本保
松山商 000 100 000=1
明石中 000 000 000=0

ノーヒットノーラン、64奪三振(1試合平均16奪三振)
7年夏の選手権大会、開幕ゲームの北海中戦でノーヒットノーラン(15奪三振)を達成、4対0で快勝する。2回戦は藤村冨美男(阪神)の大正中(広島)と対戦、接戦を1対0(2安打・17奪三振)で制した。準々決勝、黒沢俊夫(金鯱→大洋→西鉄→巨人)の八尾中(大阪)には3対0(5安打15奪三振)、3試合連続の完封を記録した。準決勝でふたたび松山商と対戦、3安打に抑え17三振を奪うが失策絡みで3失点、0対3で敗退した。
この大会、準決勝までの4試合で64奪三振、実に1試合平均16奪三振の快投だった。

▼昭和7年選手権大会・2回戦 (明石)楠本保 (大正)藤村冨美男
明石中 100 000 000=1
大正中 000 000 000=0

夏連覇中の中京商を完封
翌8年春は、第10回大会を記念して従来の倍の32校が出場。初戦の平安中(京都)を18奪三振完封1対0で破り、2回戦は二番手投手の中田武雄との継投で浪華商(大阪)を4対0で下し、準々決勝は京都商の天才・沢村栄治(巨人)と投げ合い、2対1で勝っている。準決勝は夏連覇中だった吉田正男の中京商(愛知)も3安打完封、吉田の押し出し死球による1点を守り切って1対0と勝利、自身2度目の決勝進出を果たす。

▼昭和8年選抜大会・準々決勝 (京都)沢村栄治 (明石)楠本保
京都商 000 000 001=1
明石中 020 000 00X=2

▼昭和8年選抜大会・準決勝 (中京)吉田正男 (明石)楠本保
中京商 000 000 000=0
明石中 000 000 10X=1

決勝は岐阜商の「三尺」左腕・松井栄造と息詰まる投手戦を展開、散発3安打に抑えるが、終盤8回に岐阜商にスクイズで決勝点を奪われ、0対1で惜敗し、再び準優勝に終わっている。優勝校の岐阜商には文相杯と優勝メダルが、準優勝校の明石中には準優勝旗と準優勝メダルが贈られた。

▼昭和8年選抜大会・決勝 (岐阜)松井栄造 (明石)楠本保
岐阜商 000 000 010=1
明石中 000 000 000=0

甲子園通算15勝
最後となる8年夏は、初戦で慶応商工(神奈川)を16奪三振完封、6対0で快勝(通算13勝目)。2回戦の水戸商(茨城)戦は、中田武雄との継投でノーヒットノーランを記録、10対0で大勝(通算14勝目)。準々決勝も中田との継投で横浜商(神奈川)を完封、4対0で下す(通算15勝目)。実はこの横浜商戦が楠本自身最後の甲子園マウンドとなった。続く準決勝、中京商戦は右翼手でフル出場。二番手の左腕・中田武雄が先発好投、吉田正男と延長25回を投げ合い、4時間55分の激闘の末0対1でサヨナラ負けした。この伝説の一戦で打撃に専念した明石中の主砲・楠本は9打席無安打に封じ込まれ、一度もマウンドに登ることなく最後の夏を終えている。

中京商戦に楠本が登板しなかった真相
楠本が甲子園大会で先発マウンドを譲ったのはこの中京商戦が最初で最後である。観衆が中田先発に目を疑ったのは言うまでもない。当時のマスコミも「中京は不死身の吉田、明石は意外や楠本を右翼に退けて」と表現している。栄養状態が悪かった当時、ビタミンB1不足で足が弱る脚気に悩む選手が少なくなかったが、楠本も8年夏は脚気の兆しが見えて体調不良だったらしい。世紀の剛球投手の代役に抜てきされた中田は、控えとはいえ尋常高等小学時代には全国優勝した経験を持つ好投手。前夜のミーティングで竹山部長から先発中田は既に告げられていたのだ。準々決勝の横浜商戦で救援、打者9人から7三振を奪ったのが布石になっていた。楠本以外考えていなかった中京商への“奇襲”だったが、中田が期待にたがわぬ快投を披露したのである。
楠本は慶大進学後、打者としてスタ−選手となったが、それまで酷使し続けた右腕が元に戻ることはなかった。

甲子園での投手成績
大 会スコア対戦相手_備 考
昭和5年春1回戦○12-0____楠本-峰本 (継投で1安打完封 11奪三振)
準々決勝00-10__楠本-峰本
昭和6年春2回戦04-5_第一神港商完投:7安打8奪三振
昭和7年春1回戦03-0__完封勝利(1):3安打13奪三振 【全員奪三振】
2回戦○16-1__楠本-峰本-中田
準々決勝01-0京 都 師 範完封勝利(2):1安打14奪三振 【全員奪三振】
準決勝04-2和 歌 山 中完投勝利:6安打9奪三振
_00-1__完投:5安打10奪三振
昭和7年夏1回戦04-0__完封勝利(3)【ノーヒットノーラン】15奪三振
2回戦01-0__完封勝利(4):2安打17奪三振
準々決勝03-0__完封勝利(5):5安打15奪三振
準決勝00-3__完投:3安打17奪三振
昭和8年春1回戦01-0__完封勝利(6):3安打18奪三振
2回戦04-0__楠本-中田 (継投で5安打完封 9奪三振)
準々決勝02-1__完投勝利:4安打9奪三振
準決勝01-0__完封勝利(7):3安打12奪三振
_00-1__完投:3安打6奪三振
昭和8年夏1回戦06-0慶 應 商 工完封勝利(8):2安打16奪三振
2回戦○10-0__楠本-中田 (継投でノーヒットノーラン 13奪三振)
準々決勝04-0__楠本-中田 (継投で1安打完封 16奪三振)
準決勝●00-1__登板なし (中田●延長25回完投)
昭和5年春=ベスト4
昭和6年春=2回戦
昭和7年春=準優勝
 (対広陵中=全員奪三振=史上初)
 (対京都師範=全員奪三振)

昭和7年夏=ベスト4
 (4試合=64奪三振)
 (対北海中=ノーヒットノーラン)

昭和8年春=準優勝
昭和8年夏=ベスト4
 (対水戸商=ノーヒットノーラン)

甲子園通算成績
 15勝5敗 (松山商に3敗)
 8完封
 選_抜9勝4敗
 選手権6勝1敗

慶大→大正興業
中国で戦死 (昭和18年没)
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